「沖縄料理を食べてみよう♪~食事から平和を考える~」を開催しました
今年は戦後70年ですね。各地で平和への取り組みや、戦跡ツアーなどが行われています。
パルシステム神奈川ゆめコープでも平和・国際活動の取り組みとして、
「戦争の悲惨さや平和の尊さを学び、戦争・紛争・貧困のない世界をめざして、
組合員やさまざまな団体と連携して取り組みを行っています。
終戦から70年、この間人々の平和への願いが引き継がれてきました。
この願いを未来へつなぐため、節目の年にあたり、平和について考えます。」
時々、生協なのに何で平和活動?商品を売っているのではないの??
という声も耳にしますが、平和だから豊かな暮らしができる、平和だから様々な物が手に入り、
口にすることが出来るのではないかなと考えます。
平塚エリア経営会議では、平和活動への取り組みとして、
「平塚の空襲と戦災を記録する会」より、杉山喜一様を講師にお招きしてお話を聞き、
平和を考えた食事の試食を企画しました
7月8日(水)平塚市中央公民館調理室にて開催しましたので、ご報告します
まず、杉山さんのプロフィールからご紹介します
今年83才ですが、「平塚の空襲と戦災を記録する会」に所属され、平塚のあちこちで
講演をされています。そして平塚空襲にあった方から話を聞き冊子にまとめて発行しています。
平塚空襲は、昭和20年7月16日夜から17日未明にかけて、米軍B29爆撃機にて
焼夷弾空襲を受けました。落とされた数は約45万本。一晩で落とされた数の多さは、
1位の八王子に続いて平塚が2位となりました。
この焼夷弾、中に油が詰められていて、着地と同時に炎上するようになっていたそうです。
そして重く固い鉄の塊のようです。これが束になって落ちてくる様子を想像するとぞっとします
平塚で主に空襲を受けた地域は現在の駅前付近ですが、B29の飛行機が帰還する際に
余った弾を帰路に落としていったため、地の地域でも焼夷弾が落ちたそうです。
杉山さんは駅前にお住まいでしたので、かなり過酷な体験をされました。
空襲当時の様子についてお話いただきました
当時、杉山さんの父親が急逝し、6人家族の母子家庭で過ごしていました。
夜中に照明弾の明かりで目を覚ますと、空襲が始まり、急いで家族で近くのお寺へ
逃げることにしました。布団をかぶって逃げていましたが、妹が焼夷弾に当たって
火だるまとなり、姉は右腕に焼夷弾が直撃し火傷と骨折。
急いで妹についた火を消しましたが、大火傷でした。杉山さんがまだ熱い妹をおぶって避難し、
トマト畑の枝の中で空襲が収まるのを待ちました。
次の日に病院を探して遠くまで歩きましたが、搬送途中に亡くなりました。
姉は右手が腐敗していましたが、奇跡的に薬で治療することができたそうです。
相模川に出るとけがをした人がたくさんいたそうです。
河や海岸へ逃げたり、木の下や下水溝など陰に逃げる人間の心理を突かれて
被害に合う確率が高かったのではと言われています。
杉山さんの自宅は幸い不発弾が2発落ちていただけで、焼失していませんでしたが、
母親は避難したことを大変悔やんだと言います。
でもこればかりは運だと言われていました。後になってみなければ分からなかったことだと。
戦後は食糧難で、特にお米がなかったそうです。
食べられる物は何でも食べ、サツマイモの茎なども煮て食べていました
空襲直後は助け合いだったようですが、少し落ち着くと、皆自分の生活を立て直そうと必死でした。
お金はあっても物が買えず、農家で野菜を買う時は高価な物と”物々交換”していました。
他の食糧・衣料品は配給制で、お金のほかに国が発行した券が必要でした。
スニーカーのような靴は、学校ごとに抽選で、当選した人がお金を払って購入する仕組みです。
11月に行われる運動会は裸足で、とても寒かった記憶が残っているそうです
燃料もなかったので、母親が早朝茅ヶ崎の松林に行き、夜落ちた松を燃料にしていたと聞きました。
調味料もなく、海水を煮て塩分を使ったり、砂糖もなく本当に粗食だったと・・・
そして、お話を聞いた後に沖縄料理の調理と試食です。
今回の試食は、
・わしたポーク缶を使ったゴーヤチャンプルー
・豚ひき肉で作るタコライス
・産直もずくのスープ、です
今回、私たち平塚エリア経営会議は沖縄料理の試食を企画名にあげましたが、
戦争が終わって平和な基盤の上に築かれてきたものがたくさんあると考えたからです。
たとえば、今回のチャンプルーとタコライスですが、チャンプルーのランチョンミート(スパム)は
終戦直後に米国から沖縄県民に配給物資として提供された他、在沖縄米軍の内部で消費
されていたものの一部が市場に出回りました。
タコライスは1984年に、当時の円高から米兵が節約志向により外食を控えたため
タコミートを利用し、ご飯を使用することでメキシコ料理のタコスよりもボリュームを
出してコストパフォーマンスの良いメニューを考えた結果生まれた物だと言われています。
戦後の沖縄は駐留米軍から文化を吸収し、従来からの沖縄文化にアメリカ文化を
加えた現在の沖縄文化の(チャンプルー文化ともいわれる)基盤を形成しました。
試食が終わり、最後に杉山さんにコメントをいただきました
「今の時代、やっていることが正しいのかどうかは年数が経たなければ分からないから
疑問は質問して理解することが大事だと思う。
自分が子どもの頃は、遠足に行くのに飴玉一つ買ってもらっただけで嬉しくて嬉しくて
なかなか食べられなかった。それに比べれば、今の子供はとても幸せだと思う。
ただ、この幸せを当たり前だと思わないでほしい。
大人は、この幸せをどう守るのかを教えてあげてほしい。
自分は子どもたちの未来を守るため、悲惨な過去の出来事を忘れないように伝えていく。」
83才だとは思えないほど、背筋もぴんとされた杉山さん、どうもありがとうございました
本当に勉強になりました
参加者も、戦争の話を聞きたかったという方が多くて、関心が高まっているのかなと感じました
これからも、お体に気を付けて、体験談をいろいろな人に伝える活動を続けていってほしいと思います。
コメント