「平塚の空襲体験を聞く」開催報告
6月23日に平塚駅南口にある市民活動センターにて、“平塚の空襲と戦災を記録する会”の江藤氏をお招きし、平塚の空襲体験を聞く企画を開催しました。
まず、平塚空襲への道のりということで、時代背景、太平洋戦争の勃発から、当時の世界情勢などを教えていただきました。
1944年11月24日に日本本土で初めての空襲があったそうです。
よくテレビドラマなどで取り上げられる、東京大空襲は1945年3月10日。
無差別爆撃を行った米軍によると、日本人は空襲を行ってもすぐに消してしまう、逃げずに消す日本人に驚いた、と証言する兵隊さんもいたというお話が印象的でした。
米軍はスパイを放ち、事細かく日本の都市を調べ上げていたようで、平塚も軍事施設の有無だけでなく、詳しい間取りなども調べられていたそうで(航空写真が鮮明、資料として残っている)、その話を聞いて鳥肌が立ちました。
平塚大空襲は1945年7月16~17日、23時32分~翌1時12分、138機の航空団が出撃、照明弾を落としてから、大量の焼夷弾を投下(44万7716本)、八王子、冨山に次3番目の多さでした。
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実物の焼夷弾で、かなりの重さです。直接被弾して亡くなられた方が約6割だそうです。
私も平塚の出身ですので、横浜ゴムのあたりに海軍化薬廠があり、そのために平塚は狙われ、空襲があったと伝え聞いていましたが、、、
空襲で化薬廠はたった5パーセントしか損害を受けていなかったと記録にあるそうです。
これは初耳!びっくり驚きました。
海軍化薬廠があったからにしては、なぜ損害がすくなかったのでしょうか。
私は知らなかったのですが、平塚には化薬廠の他に、海軍航空廠、日本航空工業、横須賀海軍工廠、海軍病院など、軍事施設が沢山あり、
7月16日の空襲では海軍航空廠は100パーセント、日本航空工業は16日の空襲は10パーセントでしたが、2回目(7月30日)でほぼ焼失したとの事。
爆撃の中心は軍事施設ではなく、メイン通りの交差している所、住居の中心街(平塚の中心街)がメインだったそうです。軍事産業を支える人がいる限り、施設を壊しても意味が無いという考えだったようです。
そのお話を聞いて納得しました。
その後、江藤氏の被災体験や、「平塚の空襲と戦災を記録する会」へ入会したきっかけなどを伺いました。
それまでのお話は、歴史の授業的な感じで聞いていた私でしたが、江藤氏の被災体験をうかがい、現在はにこやかでとてもお元気そうな姿からは想像も出来ない、大変なご苦労をされてきたことをしりました。ごく普通の中学生が体験した壮絶な体験を知り、より戦争の怖さを感じ、二度と戦争を起こしてはならないと強く思うことができました。
参加者の皆さんからも、ご自身の体験をお聞きすることができました。
実際住んでいる土地、身近な土地の被害、被災体験聞くことによって、
今はとても緑多い高麗山、平塚総合公園周辺、駅前周辺がどんな苦労を経て、現在に至るのか、知ることがきました。
この企画をきっかけとして、私は子供を連れ、平塚市博物館で7月16日前後に開催される平塚大空襲展を見に行ったり、働いているデイサービスでは利用者の方に戦災体験をお聞きしたりしました。
戦後時間が経つにつれ、戦争を知らない世代の多くの人はを忘れてしまい、政府は集団自治権など、戦争を正当化するような世の中になりつつありますが、
こういった小さい企画からでも、戦争について考える人が多く広がればと思いました。
平塚エリアでは初めての戦争を考える企画でしたが、知ることから初めて、徐々に子供に伝える企画に発展していけるよう努力していきたいと思います。
ご協力くださった皆様、参加してくださった皆様、ありがとうございました。
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